短編 12 【価値境界線】
人間が物事を判断するに当たって、一番必要とするのが個々の価値観と言われている。それが育つのは殆どが環境によるもので、雑多な情報や諫言などでは揺るがずに定められて行くものだろう。余程の出来事がない限りだが。
そうやって培われてゆく中、やがては現実との折り合いをつけ決定的なものへとなる。過誤はこの際別となり、生きていく上で半ば強制的に求められるのだ。
となれば必然と時は過ぎていき、時代が変わってゆく。新たな世間の中で生れ出る価値観に気づく事が出来れば幸いなものだが往々にして難しく、気づけば取り残され凝り固まったものだと揶揄される。これがなかなか受け入れられないもので、せめてもの抵抗と生きたその長さでもって相対する羽目になるのだ「貴方より私は長く生きている。」
まあ、これについては五分五分もしくは四分六といったところで、一概には断定できないところがもどかしい。結局歩んだ環境と降った運によってころころと形を変えてしまうからだ。
これらを超え普遍的な価値観はおそらくは無い、つまり全ての事に価値はないとなる。死への印象ですら、長い時代をもって様々な意見が飛び交っているのだから。
しかし、これを認めるのは容易ではない。そうでなくては何を土台に生きてゆくのかあやふやになり、最後には命を絶つしか解決できないからだ。その点だけは死は正しく機能するのかもしれない。
述べれば述べるほどこんなにも不毛なことはなく、キーボードを叩く指が笑い始めてしまう。これは暴論かもしれないが、一つ疑問が湧く。果たして私たちはいつどの様にして常識や倫理、はたまた価値観というものを手に入れたのか。その様な意見が既に青臭いと思われるのだが、いざ問われればなんと答えられるのか。とても興味深いものである。
世間の保つスピードに飲まれていると、どうにもこういった俯瞰的な思考が出来ない。仮に思いついたとしても、それを問うことのできる友人、親などがいるのかどうか。今更ながらに人を殺してならぬ理由、相手を傷つけてはいけない理由を阿呆みたいに聞くわけにはいかないだろう。決まって返りくるのは「お前ほんと暇だなぁ。」照れますね。
皆んながそうだから改めて考えることはない、その考えるこそ全ての元凶だと私は思う。20歳を越えようが、定年を迎えようとも気になることを述べない事こそ、己をお粗末にさせるであって、必要性があるかと言われれば、そもそもこの国全てに必要なものは一切ないのだから気にしてはいけない。
この様にしてお互いの価値観をぶつけることは、何も特別なことではなく、一つを挙げてしまえば音楽や服の好みですら各々分かれるだろう。そして妥協と参考を元に私達は価値観を固めてゆく。次に待つのは新たなもので、それがよければ迎合し、悪ければ無視をして境界線を引く。やがてそういった境界線が曖昧になって行き、根底は似ても全く目新しい何かに変わってゆくのだ。
グダグダとなってしまったが、要は価値観ほど信じられないものはないけども、どうしても使わざる得ないもので、何かを論じたり作って行くのなら、是非はともかく何れかの強烈な信念をもってやるしかないのだ。
「価値観を壊せ!!」
壊した者が言うなら正に金言、そうで無いならほんとに戯言。
まずは基本の価値観を身につけた上で言うべき事なんだと思った。うぐあ。
そう、私の事だね。君もかもしれないね、やだっ立つ瀬ないわぁ。
そしておケツにこびりつくものを手紙で拭き取り、便器に流します。
流水音は今日も安らかな時をもたらすのです。
愛をくれ愛を。ギブミーラァブ。