短編 6 【お隣さん】
暑さが染み渡る朝、支度の終えた僕はマンションの個室から出る。部屋の鍵を取り出して穴に差し込もうとすると、エレベーターホールから降りてきてこちらに近寄る男に気付く。派手な髪色に胸元の開けた黒いワイシャツ。赤茶のワニ皮で覆われたシークレットブーツを履き、廊下に響かせる様に踵を擦り歩く彼は視線を下げたままだった。
僕は彼に目を捉われてしまい、すっかり鍵を閉めるのも忘れ魅入られていた。彼はそのまま僕の後ろを通り過ぎてゆく。その際に漂ってきた香水の香りが肩ごしから届き、甘いだけではない大人のそれが印象的で、僕は緊張してしまった。
自室の扉の前に立った彼は、郵便受けに入っていた新聞を手に持ち見出しの文字だろうか、ちらと流し見をし始める。彼が新聞を読む事を知った時、得も言われぬ憧れを僕は抱いてしまっていた。特に会話も交わした事などない僕等だが、そんな一面を知れるだけでも何故だか能く能く嬉しかったのである。
紙面を読む彼の前髪が吐息に揺れる。鼻は細く通って高く、小さな唇が一つ仄かに赤かった。カラコンでも入れてるのだろうか、大きく青い目が。その艶の乗った瞳が動いて次第に僕を見た。
心臓が跳ね思わず手に持った鍵を落としてしまう。慌てた僕はもたつきながらも拾い上げると急いで閉め、小走りになってその場を去って行く。途中で何度か転びそうになったが、壁に手をつきつつホールに向かう。階下へのボタンを押すと直ぐに扉が開き、中へと入った。
その間際元来た方向へ目をやると、相変わらず流した様に立つ彼が僕を見ていた。その恥ずかしさに隠れたくなったが、彼の柔らかな微笑みにやはり安らぎを覚えてしまう。閉まってしまう扉に名残惜しさが増した。
これからも声を掛け合う事なく続くだろう僕達の関係は、いつまで続くのだろう。
明日も僕は、朝の7時に家を出る。