短編 3 【夢】
彼女は街を歩いていた、誰も居ない街を。普段ならば人でごった返す駅前も、人っ子一人見当たらない。アゴに伝う汗を裾で拭うと彼女は歩き続ける。視界は狭く、呼吸は浅い。顔を覆うマスクをずらし、水筒から水を飲んだ。ぬるい温度で喉を流れる液体でも、今の彼女には有難かった。漏れた吐息に全身から汗が吹き出る。
日本と呼ばれるこの国のかつて栄えた繁華街。無人となった歌舞伎町は、形だけを残しその機能を失くしていた。電光掲示板は客を呼び込み、多くのテナントが光を灯していた。
二週間前、突如この国を脅威が襲った。定型通り殆どの人々は死にさらばえ、その他も後を追って逝き、何故だか彼女だけが生き残った。そんな彼女の外見は物々しく、その足取りは重いもので数メートル進む度に息を切らして立ち止まっていた。視線の先にはドンキホーテ。煌びやかに煩雑な店頭に、並びそびえる商品群。引き寄せられるままに彼女は店内へと入って行った。
森の如く続く様々な商品を見て、その一つ一つを吟味する余裕など今の彼女には無く、近くにあった手頃なブロック肉を手に取り出口へと向かう。途中レジの横を通り過ぎるが、何も考えずに外へと出た。
元の歩道に戻り再び進む。昼夜も分からぬこの街の街路灯が幾つも目に入った。遂には限界が来て、ガードレールに腰を預ける彼女。朦朧とする意識や、息が上がって上下する落ち着きのない肩をどうにかする為に目を閉じる。
聞こえる呼吸の中で母と姉の事を思い出す。いつも彼女の前に立つ二人の表情は見えず、玄関に立てられた靴べらは彼女達の道具として活躍していた。彼女の日常は面白く、週の半分を冷蔵庫の前や部屋の隅で小さく蹲り過ごした。父はそんな彼女を哀れんでいた様な気がする。愛の証だと押し付けられた火傷の痕がじくじくと痛み始め、急いでマスクを外す。
途端に漂う強烈な腐敗臭が鼻を抜けて、自然と吐き気を催した。それを堪え水を含むと、激しくゆすぎ道端に捨てた。しばらく吐き気にうなされていたが、これまでの環境から比べれば何のこともなく、どこかで湧く開放感に喜びをかんじていた。
大分疲労してしまった体は力が抜けて行き、気を抜けば地面に倒れそうだった。僅かになった体力を取り戻す為に、まずは朝から空の腹を満たすべきだと先程頂戴したブロック肉の包装を解く。
腐臭で全く分からない肉の匂い。ともかくかぶりついては胃の中へ詰める。口に残った肉を集め咀嚼していると、離れた柱に張り付けられた政治家のポスターが見えた。その笑顔に彼女も返し、全く知らない誰かの無能さを感謝した。
視線を変えて目の前にあるガラス窓に移す。そこに映り込んだ彼女はなんとも惨めで、こけた頬に歪んだ皮膚、肉を持つその手は細く骨が浮き出て、唯一生き残った日本国民の最後と言われても、哀れに思えるだけだった。
その姿に嘲け笑うも口から零れる掠れた声が、まるで今際の際を迎える老人の様で堪らない。悔しさに泣きそうになって、腹をたてれば肉片をガラスに叩きつけるだけだった。
不快な水音だけを鳴らして落ちてゆく。何がこの心を急かすのか、我慢のならない焦燥が憎たらしく、縛られることの無いはずのこの身は、ただ逃げ出したかった。
もつれる足を何とか走らせて歩道を駆ける彼女。大通りの交差点に飛び出すと遂には転ぶ。仰向けになった彼女の肺が悲鳴を上げて息ができない、点滅する視界には燻るような灰色の空が広がっていた。やがてそこに一筋の光が流れ、彼女の真上高くで弾けて輝いた。
どっかーーーん!
これで私も死んでしまうのか。
街を包む光りに彼女も飲み込まれたが、その最後まで涙は流さなかった。
そうして私は目を覚ます。長い座席の端にいた私と、肩に乗った男の頭。つり革を持ち前に立つ女は、眠る私を携帯に収め笑っていた。
帰路につく私には、姉などいないし母とは仲が良かった。全てが非常識に思えたこの時、私は夢の中で何を求めていたんだろうか。
そんな思考も次第に眠気にかき消され、私はまた夢に耽てゆく。