短編 11 【英雄に捧げる】
短編 10 【小さい冒険者】
短編 9 【蜘蛛】
短編 8【始めの記憶】
長い人生の間、いつまでたっても忘れられない記憶が一つある。どんな時でも不意に、脳裏へと描き出される光景だ。朝も夜も構わずにやってくる。
幼児の頃、目の前で人間が轢かれるのを見た。それは特別大きな事故ではなかったが、突如現れる車の下へ、なんとも簡単に吸い込まれてゆくその形がくっきりとしていたのである。当然その衝撃は凄まじいものだったが、目の当たりにした瞬間、意識できる全ての音が消えて、赤い色だけが残った。
その赤は、前後するテールランプの所為だったのかもしれない。つまり、記憶の色を覚えたに過ぎないのだ。
強く握られた右手。父の体温が伝わって全身から汗を流す。頭か胸か、吐き気と共に訪れる感情は、恐怖と焦りでバランスを保つ。涙腺が緩んで喚き散らさなかったのは、幼い知識が理解に追いつかなかったからか、その逆か。ただ漠然と我慢をしていた気もする。
後に覚えているのは救急車のサイレン。唯一明確に聞こえた音はそれだけだった。
初めて知った何かの死という出来事。誰かに説明をされた訳でも、求めた訳でも無かったが、強烈に染み付く記憶は、今でも赤く心を照らす。
短編 7 【優劣】
昼休みになると、僕は数少ない友人の1人を連れて教室を出て行く。手に下げたビニール袋の音が廊下に鳴り渡らせながら校舎の外へ。隣を歩く友人は猫背が酷く、前を向くその顔は前髪が長く垂れ下がっており、隠れる様に眼鏡が見えた。2人がいつもの場所へ向かっていると、裏庭の横に数人の生徒が見えた。いち早く彼等に気付いた友人が、明らさまに怯えつつ呟く。
「あ、あ、離れよう。」
個人的にも彼等が苦手だったので、その提案に反対する事はない。
その場から立ち去り、別の所に腰を落ち着けた。先程の光景を思い出しながら、袋より弁当を広げる。集団を作ってはいたが、しっかりと構図が敷かれており、1人を囲う様に数人が群がっていた。何をされているのかは明白だった。しばらく僕達は無言になって箸を動かしている。お茶のパックにストローを差し込んで中身を啜っていると、友人が話しかけてきた。
「今日は江口君だったね。」
弄られていた男子の名前を口にする。そこに含まれた感情には呆れが感じ取れた。
「うん。」
似た様な返事をして、それきり黙る2人。
先週は別の人間がその立場にあった気がする。更に前へ思い返せばまた別の人間が。週替えでもって変わってゆくターゲット。面白い事もので、その対象はいつも同じグループの中から選ばれ、しかし順繰りに移るその立場も1人を例外的に除き、常に行われていた。まあ、要はその1人が中心なのだ。
学校という特殊な環境で生まれるもの。余り余った余裕の暇つぶしの果てに、子供達は他人との繋がりを必死で持ちながら、その中での立ち位置を確かにしたがるのである。そうやって群れる僕らは、閉ざされた様にそれ以外を考える事が出来なくなり、やがてはつまらない状況にはまり込んで行く。
友人と僕はその序列の中で最下層だと知っていたから、早々に手を組みお互いの安全と寂しさを補っているだけ。しかしどちらも安泰な事は決してないので、ふとした瞬間に崩れてしまう。ならばと助ける勇気はお互い無いものだから、恐らく見殺しにするかもしれない。幸いその機会はまだ訪れていない。確認をしたことはないけども、それは暗黙の了解だった。
一通り食事を終えて、僕等は持参した漫画を各々に読み始める。すると向こうの曲がり角から1人の女子生徒が現れて、僕の視界を横切っていった。行き先にあるのはトイレしかないと知っていたが、案の定その中へと入ってゆく。彼女が何故離れにあるトイレを使うのか、理由は分からないがどうでもよかった。
目に入った彼女の、丈の短いスカートから覗ける太ももがイヤらしく肉づいて、自然と勃起していた。そうなると僕は正直なもので、一切の好印象を持たない彼女にも関わらず、下劣な妄想を目一杯楽しんでいた。そんな彼女は僕のクラスにおけるカーストリーダーで、どうしてあんな奴にも生理が来るのか不思議で仕方なかった。
最早漫画に集中する事は無く、若さに駆られどうしようもない事ばかりが廻り回っていた。要はあの2人が癌なのだ。取り除くのは誰でも出来るはずなのに、僕を始め1人として行う者はいない。
「ねえ、それ読んでもいい?」
声を描けられた事で我に返る。言葉の意味が理解できず、間抜けに聞き返した。
「え、何?」
「僕もそれ読みたいんだけど。」
そう言えばコイツはいつも僕の思考を上手に乱してくれるな。そう思いつつ差し出された細い手に本を乗せる。そうして何もする気が起きず、僕は近くのトイレへ行く為に立ち上がった。
「どこ行くの?」「トイレトイレ。」
言い残して向かう。
僕等は今中学二年生。卒業までは半分を過ぎたという所。残りの1年で、あと何回僕達は優劣を求めて登校するのか。そうやって安易に死を願う僕は、多分間違ってはいない。
短編 6 【お隣さん】
暑さが染み渡る朝、支度の終えた僕はマンションの個室から出る。部屋の鍵を取り出して穴に差し込もうとすると、エレベーターホールから降りてきてこちらに近寄る男に気付く。派手な髪色に胸元の開けた黒いワイシャツ。赤茶のワニ皮で覆われたシークレットブーツを履き、廊下に響かせる様に踵を擦り歩く彼は視線を下げたままだった。
僕は彼に目を捉われてしまい、すっかり鍵を閉めるのも忘れ魅入られていた。彼はそのまま僕の後ろを通り過ぎてゆく。その際に漂ってきた香水の香りが肩ごしから届き、甘いだけではない大人のそれが印象的で、僕は緊張してしまった。
自室の扉の前に立った彼は、郵便受けに入っていた新聞を手に持ち見出しの文字だろうか、ちらと流し見をし始める。彼が新聞を読む事を知った時、得も言われぬ憧れを僕は抱いてしまっていた。特に会話も交わした事などない僕等だが、そんな一面を知れるだけでも何故だか能く能く嬉しかったのである。
紙面を読む彼の前髪が吐息に揺れる。鼻は細く通って高く、小さな唇が一つ仄かに赤かった。カラコンでも入れてるのだろうか、大きく青い目が。その艶の乗った瞳が動いて次第に僕を見た。
心臓が跳ね思わず手に持った鍵を落としてしまう。慌てた僕はもたつきながらも拾い上げると急いで閉め、小走りになってその場を去って行く。途中で何度か転びそうになったが、壁に手をつきつつホールに向かう。階下へのボタンを押すと直ぐに扉が開き、中へと入った。
その間際元来た方向へ目をやると、相変わらず流した様に立つ彼が僕を見ていた。その恥ずかしさに隠れたくなったが、彼の柔らかな微笑みにやはり安らぎを覚えてしまう。閉まってしまう扉に名残惜しさが増した。
これからも声を掛け合う事なく続くだろう僕達の関係は、いつまで続くのだろう。
明日も僕は、朝の7時に家を出る。